お菓子の壽城

壽城の楽しみ方  

国立公園大山のふもとに、米子城の面影を再現

鳥取県西部の玄関口、米子自動車道米子ICを降りるとすぐ前方に見える大きなお城。
知らない方にとっては、「えっ、歴史上あんな場所にお城なんてあったかな?」と思われるはず。
そうこちらは、平成5年、米子城をモデルに築城されたお菓子のテーマパーク「お菓子の壽城」。
見た目に関しては、立派な天守閣を持つ近世風城郭として名をはせたホンモノそっくり。
石垣も一部旧米子城より移築するほどのこだわりで、秀峰・大山を背景に栄華を誇った当時を偲ばせてくれます。

城内には、山陰名菓を販売する「壽城売店」、山陰の特産品を扱う「楽市楽座」、旅の疲れを癒す「すなば珈琲 展望茶楼」、「テイクアウト すなば珈琲プレミアム」、日本海と大山を望む「天守閣展示場」、和菓子の製造工程がガラス越しに見学できる「工場見学ホール」、山陰、米子城の歴史が学べる「展示コーナー」など、買う・休む・食べる・見る・学ぶ施設が充実しております。
旅の憩いの場に、旅の思い出に是非お立ち寄りください。


瓦葺入母屋造りのお城は、天守閣の高さ27メートル、石垣約6メートルです。
2階からエレベーターと螺旋階段で最上階に上がると、そこは周囲を360度見渡せる展望台。
秀峰大山や弓ヶ浜半島を一望できます。
また、味わいのある音色の「ツイてる鐘」が設置されていて、鐘をつくといいことがあるとか。
運とツキの向上をお祈りしてください。
入場無料でご利用頂けます。

 

お菓子の壽城工事概要

住所 鳥取県米子市淀江町佐陀1605-1
敷地面積 約12,699平方メートル(3,811坪)
延床面積 約4,400平方メートル(1,331坪)
形式 瓦葺入母屋造り
鉄骨鉄筋量 730トン
天守閣の高さ 27m(石垣約6m、しゃちほこ105cm)
屋根瓦の量 86,480枚
オープン 平成5年4月25日

 

幻の名城米子城と歴史絵巻

米子城歴史物語

1590年豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅し、全国統一を完成しました。

1591年秀吉から出雲東半・伯耆西半隠岐の所領を与えられ、12万の大名となった毛利元就の孫、吉川広家は富田城を居城としたのですが、山奥にあって不便であった為、新城の建設を決め候補地を捜した結果、領地の中心であると共に、海港をもち地の理にもかなった米子に決定し、米子湊山に築城を開始しました。この時代の城郭の特徴は、天守閣をこの城の中心建造物として建立し、城郭の秀麗さを強調する築城方法であったのですが、米子城もこの方法で築城され、山陰最初の近世城郭として湊山の山頂に4重の天守閣が建てられたのです。しかし、築城は順調ではなく、1592年秀吉が日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序をつくることを志し、朝鮮に対し入資と明出兵を求めたのですが、朝鮮がこれを拒否すると、15万の大軍を朝鮮に派兵し、「文禄の役」が始まったのです。

この時、米子築城に取りかかっていた広家にも秀吉より、朝鮮出兵の命が下り、兵5000人を率いて出陣したのです。この戦いは一進一退を繰り返し、1597年には「慶長の役」として、争いは継続されたが1598年秀吉が病死すると撤兵し、争いは終結したのです。

朝鮮出兵での広家の活躍は、目ざましいものがあり、秀吉より賞を得たほどでした。

そして1598年に凱戦し、再び築城にとりかかりました。

1598年秀吉没後の「日明の和議」により朝鮮より帰還した毛利元就の孫、吉川広家は再び米子城の築城にかかり、4重の天守閣を完成させ、7割程度まで築城は進んでいたのですが、1600年関ヶ原の合戦で西軍の毛利氏は敗れ、中国の大守から防長2国の大名に没落し、広家も周防岩国へ移封され米子における吉川広家の時代は終わったのです。

その後、駿府の中村一氏の嫡子・一忠が父一氏の関ヶ原の戦での功により、家康より17万5千石に封ぜられ、1601年に伯耆の国に入ったのです。一忠は松平伯耆守一忠と称し、年齢わずか13才であったので、藩の執政は家老の横田内膳村詮によってなされました。

一忠・村詮は藩政の中心を、平野をもち、海港をもち、交通至便な米子に決定し、広家が構築半ばの米子城郭を完成させるべく、出来上がっていた4重の天守閣の横に石垣を一部張り出して、4重5層の天守を、1年余りで建て、本丸に大天守・4重櫓と、2つの天守が並び建つ全国でも稀な華麗な城郭となったのです。標高90mの湊山山頂に建つ大天守は高さ約20mもう1つの天守、4重櫓は高さ約11.5mでした。米子城は吉川広家による基本的な城郭の構築と中村一忠・横田村詮による増築によって完成されたものと言う事が出来ます。時に1602年のことでした。

中村家中の人々の多くは大阪周辺出身で、大阪文化をもった一忠・村詮を中心とする中村藩の人々には、米子城大天守を大阪城の天正型天守によく似たものに・・・と示唆したことであろうと考えられます。

1602年、山陰随一の名城と言われた米子城が完成し、中村一忠は横田村詮を始めとする家臣一同と共に入城しました。

しかし、翌年の1603年、中村一忠は家老の横田村詮を家中の主導権争いの中、謀殺し、その結果「米子城騒動」が起こり米子城に暗雲が立ちこめ始めました。

一方、全国ではその年、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開き、江戸時代の幕開けとなった年でした。

1609年、一忠は20歳の若さで急死し、跡継ぎがなかったので中村家は断絶し、翌年加藤貞泰が城主として入城し、1615年に幕府が発した「一国一城令」にも米子城は例外として保存されました。そして1617年貞泰は大阪の陣の戦功により伊予国大洲へ転封となり、その後池田光政が因幡・伯耆2国32万石で鳥取城に入城し、米子城は同族の池田由成の預かりとなりました。そして1632年光政は岡山の池田光仲と交替しました。米子城はひき続き存続を許されて、光仲は家老荒尾成利の居城として、西伯耆の統治を任せました。荒尾氏は「自分手政治」と称する西伯耆の半独立的統治の政策を施行し、以後230年荒尾氏が代々続き、版籍奉還を迎えました。その後米子城は米子の士族に無償で払いさげられましたが、維持に困り、1875年に3500円で売却がくわだてられましたが買い手がつかず結局天守は古道具屋に37円で買いとられ明治13年頃に取りこわされて風呂屋の薪にされてしまったと言うことです。

1602年の築城から数えて278年。山陰の名城といわれた米子城は石垣を残すだけになったのです。

 

米子城の造り

米子城には、天守と4重櫓の2つの天守が独立して建っていた。

天守は本丸の北端に位置していた。初重と2重は同じ大きさで、10間に8間あった。3重は7間に6間、4重は3間に2間半と伝えられている。初重を現存天守で比べると、伊予松山城や犬山城と同じ大きさである。さして大きいほうではないが、標高90メートルの湊山山頂に建っているので、実際よりも大きく見えていたに違いない。天守総高は各種の高さを合わせて66.4尺。

外容を見てみると、初重には付庇をつけており、2重3重と大入母屋を繰り返し重ねて両方を大きく交錯させている。いわゆる八棟造りと俗称されている造りである。

最上部は内部2階となっているのだが、外部は何の仕切りもない。望楼型天守に多い回縁、高欄を簡素化したようで、望楼型天守から層塔型天守へと移っていく流れの中で過渡的な天守形状である。(1間1.8m、1尺30cm)